2009年11月13日金曜日

「事業仕分け」を人民裁判と評するおろかさ

 行政刷新会議の「事業仕分け」が始まったが、これを「人民裁判」のようだと報道するマスコミがあるが何を甘ったれたことを言っているのかと思う。

 国の借金が800兆円をはるかに超え、さらに借金が増えようとしているこの時に、無駄な事業を削る作業を、一応政府関係者からという表現であるが「人民裁判」という見出しを使って批判するマスコミとは一体なんだ、ジョーダンじゃない。

 そもそもこのようなことは先の政権がとっくの昔にやっておくべきだったのだ。国の財政状況は今や先進国では最低レベルまで落ち込み、どうしようもない飲んだくれの親父がこしらえた借金を、その子が少ない給料の中から返していかざるを得ないような状態なのだ。

 母屋ではおかゆをすすっているのに、離れではスキヤキを食っている状況は今でも変わっていない。これを打開するための「業務仕分け」なのに、それを批判する意図はほかにあると考えざるをえない。

 周囲では、もっと担当者の意見を聞けとか、素人の仕分け人が一方的に断を下すのはおかしいとか、時間をかけて等いろいろ雑音を発しているが、限られた時間内で多くの事業に対して的確な判断を下さなければならない今となっては他に方法はあるまい。

 それもこれも先の麻生首相が権力の座に固執して衆議院の解散を先送りしたことが原因だ。来年度の予算案に取り掛からねばならないきわめて重要な時期に政権交代という大きな変化を組み入れながら、予算案を作成し、政権を維持していくことは歴代の内閣は経験したことがないのではないか。自公政権が前内閣のやったことをそのまま盲目的に踏襲していくのとはわけが違うんだ。

 国が異なれば革命にも匹敵する政権交代がいかに大きな出来事かを考慮せず、明日も同じ様な風が吹くだろうという安穏な思いで自公政権時代の政治と比較して何になる。政権交代すれば、時と場合によっては明日からでも徴兵制や核武装などの論議がされてもおかしくないほどの重大な出来事なのに、旧来の政治手法を変えようとする際に生じる不可避なトラブルに対してさえも、重箱の隅を突くような取り上げ方をして、針小棒大に紙面やテレビ欄を埋めてしまう様なことはやめないか。

 「事業仕分け」の会場で役所の担当者が仕分け人に一方的に苛められているといった情に訴えるような報道の仕方は、まるであの八ッ場ダムの住民の報道とまったく同じではないか。仲良しクラブで国の財政を論じても何の効果もないことは先の自公政権で立証済みだ。ホンネで言い合う過程で必要不可欠な事業は浮かびあがってくるだろうし、そうでないものは消滅するだろう。

 この「事業仕分け」作業に対してあたしは2つの効用を説きたい。

 ひとつは当然のことながら、いくつかのムダな事業はこのことによってあぶり出されてくるだろうという事。仕分け初日だけで23項目50事業のうち7項目10事業を「廃止すべき」と判定され、500億円余りの削減になるというし、2日目も埋蔵金などにも切り込んで6200億円余の国庫への返納を要求した。一見妥当と思われるような事業でも俎上に乗せてチェックするようなことが今まで行われていただろうか。今までの硬直した予算編成のあり方が、あたかも必要不可欠な事業として喧伝されてきたきらいがある。「事業仕分け」の作業は、役人がなかなか見せてくれなかったサイフの中身を国民の前で広げて見せてくれたようなもんだ。このことだけでも意味がある。

 ふたつ目は、役人とくに官僚は自分たちの保身と蓄財に執心するばかりで、税金のムダを無くすことに長年無関心であり続けたためにふやけた頭脳をブラッシュアップするいい機会にめぐり合わせたことだ。すばらしい頭脳を持ち合わせながら、次元の低いことばかりに能力を使って、わが世の春を満喫していた霞ヶ関の人間に対し、この「業務仕分け」作業が目を覚まさせる冷風を送り込んだことは間違いない。本来ムダかどうかの仕事はこれらの役人がすべきことだが、自分たちが安穏と過ごすためのムダな経費をも巧妙に織り込ませて作成された予算案に、役人自身が「事業仕分け」作業をすることは己の恥部を探すようでなじむはずがない。ネット中継を見ると、頭脳明晰であろう担当者が仕分け人に対しいかにうまく言いくるめるかに懸命で、肝心の事業の必要性を決められた時間内で得心させられないのはどうしたことか。仕分け人が一方的だとか、話をさせてくれないとか能力ある者が言うべきことではあるまい。もともとムダな事業であるということを知りつつ、必要性を説明しなければならない姿も哀れだけどね。

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