2009年10月31日土曜日

ゲーツ発言はブラフ(脅し)だ

 10月31日付読売新聞の夕刊「とれんど」に書かれた論説委員の記事を見て、あたしは驚いた。こういう記事を臆面もなく載せてしまう新聞はいったいどこの国の新聞だ。

 その記事は、先日来日したゲーツ米国防長官が沖縄普天間飛行場の移設問題で、「代替施設なしではグアムの移転もない。グアム移転なしでは沖縄の兵員縮小と土地返還もない」と指摘したことに対し、鳩山政権が即座に反応しなかったことを批判している。鳩山政権のそういう態度を、先の日米大戦がどうして起こったかその原因になぞらえて、もし日本が大統領来日までに決断しなかったら何が起こるかわからないぞ、と日本国民を脅すような内容になっている。かっての軍事国日本の侵略戦争の原因を、以後60数年間戦争を起こしたことのない日本の鳩山政権の対米交渉になぞらえるという強引な記事の展開にも驚いてしまう。

 ご丁寧にも「最初に火を噴くのはおそらく米議会だ。『日本は不熱心だ。予算からグアム移転費用を削ってしまえ』と狼煙があがれば、大統領といえども覆せなくなる」と日本をつるし上げるシナリオまで書いてくれている。これこそ記事による日本国民に対するブラフではないのか。

 上記のことにしても、沖縄の米海兵隊のグアムの移転があたかも日本だけが望んだような発言だが、アメリカも望んだことをご存じないか。いかにして移転費用の多くを日本に負担してもらうかに米国が励んだ紆余曲折があったのを知らぬはずがなかろう。

 記事はゲーツ米国防長官の発言が単なる脅しではない、と暗に言っているがそれはあたしたちにも分かる。ただ普天間飛行場の移設問題と絡み合わせて、他の問題を持ち出してくることこそ、ブラフの最たるものではないか。鳩山政権は米政府が実行できない単なる脅しとは受け取ってはいないようだ。その上での行動だと思う。思いのままにならぬ鳩山政権に対し、まだどういう結果を出すかわからぬ米政府に先んじて、ことさら大げさに想像たくましく脅しに満ちた記事を載せる日本の新聞こそ問題だ。

 言っておくが、日本は侵略戦争を始めたのではないのだ。基地問題をはじめとした種々のことについて米国との対等な交渉を望んでいるだけなのだ。

 日本国内で日本人が作っている新聞が、鳩山内閣は「ゲーツ発言をブラフと見誤っている、米国は本気だぞ」などと米政府の代弁をしてどうなる。購読数が日本一だと日本の大新聞を自負するならば、日本国民の視点で記事を書いてもらいたい。日本政府に対する自虐的な記事を書いて他国の代弁記事に力を注ぐようなことをせず、本当に鳩山内閣が日米外交の危機的な状況に鈍感であるというならば、自社の社説などでそのことを指摘すればいいことではないか。

 アメリカという大国に軸足を置いた、まるで「虎の威を借る」ような記事でしか掲載できない勇気しか持ち合わせていないとはあたしは思わない。そして、あたしの興味はこの記事が沖縄の新聞にも掲載されたかどうか知りたいことにある。

2009年10月26日月曜日

鳩山首相の所信表明演説について雑感

 26日に召集された臨時国会で鳩山首相が所信表明演説を行った。

 あたしはこのテレビ中継を見ながら、あたしにも分かりやすい鳩山首相の演説を聞きながら、同時に今度は与野党逆転した状態で国会の品のない野次がどこの党のどの議員によってどのくらいエゲツなく発声されるか楽しみにしている。そして衆議院であれば4年後、参議院ならば来年7月の選挙でその結果を思い切り発揮させてもらおうと思っている。

 あたしたちの何倍いや何十倍の国会議員報酬を得て、国会の中で居眠りをしたり、携帯を操作したり、漫画なんぞを描いている議員を良く見かけた。この臨時国会ではどうか。現に今、鳩山首相が演説している間も、あのシンキローは腕組みをしながら目をつむって下を向いているし、安倍ちゃんは風を引いたか大きなマスクをかけている。前総理の麻生ちゃんはシブイい顔をして鳩山首相を睨みつけている。

 鳩山首相が郵政事業の抜本的見直しに言及した時、亀井くんは何度も頷き、与党議員の歓声で演説が一時途絶えたけど、この雰囲気は郵政選挙で大勝利した直後のあの小泉元首相の演説時と似てなくもないなあ。向かうべき方向は全く違うけどね。

 鳩山政権の特徴をあげるならば、首相をはじめとして多くの閣僚が自分の言葉で政策を述べていることにある。それらはあたしたちの心にストレートに響く。たまに勇み足のような出来事もあるが、今までの自公政権が造った仕組みを180度変えようとするのだから、それも止むをえまい。良くも悪くも鳩山政権の閣僚たちが一生懸命働いているのが見えるのである。見えるからこそ、何をしようとしているのかが分かり、あたしたちも安心できる。

 国会中継でひな壇に並ぶ閣僚をみると、座り慣れないイスに戸惑う様子が伝わってきて思わず苦笑してしまう。それにしても半世紀ぶりの政権交代を象徴する鳩山首相の所信表明演説を無視して、酒井法子被告の初公判を延々生中継する民放テレビ局に日本国の民度を見るようで、ふっとため息が出るのである。

2009年10月24日土曜日

「ブログ」にはまりかけたあたし

 あたしはこの8月からブログを始めたばかりだ。会社勤めの頃は社内のOA化やコンピューターシステム開発に多少なりとも関わってきたから、コンピューター関係が苦手ということもなかったんだ。ただそれらの最新鋭機器(当時のことだから媒体は紙テープとかパンチカードを利用したものだったけど)に振り回されたあげく、会社を辞めたとたんにその反作用でPCなどの機器アレルギーになってしまったんだ。

 でも約20年前に始めたパソコン通信は、その後インターネット通信に乗り換えて切れ間なくやっていたから、こういう世界を根っこから嫌っていたわけじゃない。ただ会社を辞めた、いや止めざるを得なくなった背景にこういう情報機器が少なからず関係していたこともあるなあ。詳しいことはこっちに書いてあるよ→http://watashi-no-johdan.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8b72.html
 
 ブログを始める前は、インターネットを利用していろいろ調べものをしていた程度で、ブログって一体何?というくらいチンプンカンプンだった。日記を書くためのツールとか言うけど、どうして自分の日記を他人に公開するんだろうと不思議だったね。そのうちホームページとしての情報発信機能を持つんだということがわかって、ハハーン個人の意見広告を載せるシステムみたいなもんだ、と思った。

 おぼろげながらの知識を駆使してブログというのが一体どんなもんか、あたしも体験してやろうじゃないかと思ったのがこの8月なんだ。もちろん、どこの誰かに拙い文を読まれて嘲笑を受けたり、変なコメントやメールが送られてくるのが怖かったけどね。文の内容によっては脅迫みたいなものもあるかもしれない。しかし無知があたしの背中を押してくれました。

 ブログらしきものを載せて(もっと専門的な用語があるんだろうね。アップロードだとか)3ヶ月。ブログに関する技術的な進歩は全く見られなかったけど、一部の芸能人や有名人のみならず一般の人も自分のブログに取り憑かれたようになる心境がわかったような気がする。

 それは始めて2ヶ月過ぎた頃。自分の書いたブログが他人にどのくらい読まれているのかな、と軽く思い始めたのがいけなかった。このブログはあたしの気分晴らしで書くんだ、誰の目につかなくても結構、ひょっとしたら多くの人に幼稚な文章が読まれてしまうかもしれないというスリル。その狭間で揺れ動く自分の心を弄びながら、初心の気持ちがいつの間にかブログのアクセス数を気にすることに変わってしまった。

 恥も外聞もなく、あたしは自分のブログにランキングバナーを貼ってアクセス数を追いかける日課が続いたんだ。そうすると次から次へと新しい文章をアップしないとアクセス数が増えないことがわかって、そのことだけに1日の大半が費やされるようになった。あ、これは「ブログ中毒」だ!

 昔、パチンコ屋の前を通る時に強烈な誘惑を覚えたことがある。パチンコ中毒寸前だったそのころのあたしは、給料前にお金を使い果たし、寮母さんに500円(今の2~3千円くらいかな)借りてパチンコ屋にかけつけたっけ。それもすべてスッっちゃったけどね。「ブログ中毒」はその感覚に似ているなあと思ったね。

 あたしのブログにアクセスする者は日に数件あるかないかのことにあたしは一喜一憂し、一体何を好んでブログの文章作成に夢中になるんだ、と毎日思った。もっと大事なことがあるだろう、と別のあたしがささやく。

 世の中に多くのブログサイトがある。より多く検索できるように設定できるもの、簡単にアクセス数がわかるもの、そうでないもの、工夫をすればわかるもの。でもただブログを書き、公開しただけでは、自分のブログをアクセスするとそれもカウントされるんだ、とわかったときの驚きと悔しさはこういう世界に何十年も携わっているプロブロガーにはわかるまい。なんてことはない、1日数件足らずの読者は自分のことだったわけである。もちろん自分のIDを除外すればカウントできなくするものもあるが、省エネの時代、毎日モデムの電源を落とすので、そのたびにIDが変わるそんな煩雑なこと付き合うことは若葉マークの者にはできない。

 ブログランキングでも同じ様なもんだ。ここでもオリンピックの競技のように、熾烈なトップ争いが行われている。あちこちに連絡して「あたしのブログにアクセスしてランキングバナーをプチッと押して頂戴」という声が聞こえる。またポイントがどうのこうのと、あたしのような新米ブロガーには何のことかわからない。あたしは自分の文章にアクセスし、賛同する人がどのくらいいるのかなあ、と幼稚な気持ちでバナーを貼ったのに、IOCじゃないけれど政治的なニオイのするそのランキングに興ざめしちゃった。でもあたしの気持ちは予期せぬ方向、「ブログ中毒」に行きつつあるのがわかったんだ。そこで考えた。こんなことにはまってはいけない、と。

 いまでもあたしはブログ作成時の種々の機能がわからない。携帯電話にたとえれば、電話とメールだけしか使っていないようなものだ。ほかの機能を使わなくても他人の興味は引かないかもしれないけどブログ作成に問題はない。必要最低限の機能を使って、あたし自身が満足すればそれでいいじゃん。人があたしのブログを読もうと読むまいと、あたしには関係ない。少しさびしいけどね。アクセス数を気にする限り、よそゆきのブログしか書けまい。たまたまあたしのブログを開いた人が読んでくれたらそれでヨシと思った方が気楽にブログを書けそう。
 
 携帯でもブログに投稿したり、読んだり簡単にできる世の中だから、十代の人たちが夢中にもなるのも当然かな。でも携帯中毒と同様ブログ中毒にも気をつけなくっちゃね。

2009年10月17日土曜日

楽天、CS第二ステージへ!

 楽天がソフトバンクを連覇して第二ステージに進出したよ。CSを目前にして契約とはいえダメ押しのように解雇を言い渡された野村監督の心中はいかばかりかと思うね。奇想天外なグチを言う野村監督というけど、なかなか胸を打つ言葉も言っているんだよ。

 昨日(16に日)のソフトバンクとの試合前に今季限りの退任を選手に伝えた監督の言葉はしびれたね。「みんなどこを向いて野球をするのか。ファンを向いてプレーしてほしい。ここで心を一つにしなければ、一つにするチャンスはない」とね。

 おかげで昨日は11対4でソフトバンクに勝った。今日は4対1で負かした。これで札幌での日本ハムとの第二ステージへ乗り込めるが、試合の後で野村監督はファンに向かいこう言った。

 「すでにご存知の方もいると思うが、今季限りで監督を辞めるので、今日挨拶をしないと、今後その機会があるとは限らないのでこの場を借りてお礼申し上げたい」とまあ、こんな調子でスタンドのファンに挨拶したけど、ジーンときたね。日頃の野村監督の毒舌やグチを聞かされているので、なおさらこのような言葉は心にしみる。

 楽天が第二ステージへ進めたことで、たとえ日本ハムに負けたとしても、野村監督の退任にふさわしいお膳立てができたような気がする。皮肉なことにCSを前にして言い渡された解雇の件があったからこそ、選手が一丸となって試合に臨み、強敵のソフトバンクを負かしたようにも思えてくる。

 だからあたしも言う機会がなくなるといけないので、今日ここで言わしてもらいます。「野村監督、長いことお疲れ様でした」。

2009年10月14日水曜日

羽田ハブ空港化と「東の成田、西の関空」

 前原誠司国土交通相が12日に羽田空港の国際ハブ化について最優先で進める考えを表明したことに成田空港周辺の首長らから反対の声が上がっている。東京都や神奈川県は歓迎の意向を示しているという。
 
 おなじみ日本国における典型的な地元エゴのパターンだ。苦労の末できた地元の空港が大臣の一言で軽んじられたと思ったら即座に非難の嵐だ。他方恩恵を受ける東京都や神奈川県は大喜びだ。

 前原国交相の羽田空港ハブ化の考えは、関西空港(以下関空)の活性化策等について橋下大阪府知事と会談した際に明らかにしたものだが、関空の活性化策については具体的な話にまでいかず、橋下知事の目的は不発に終わったようだ。関空のハブ化を持ち出したら主題が羽田空港のハブ化に移り、外野の騒々しさも加わって関空の話はかすんでしまった、というところか。

 橋下知事は日本には2つの国際ハブ空港が必要だというのが持論だけど、関空をその一つに数えれば、もう一つは成田か羽田に落ち着くだろうと予測はしていたのだろう。関空を国の政策で重要視する、すなわちハブ化するという国交相の言質さえ取れば、もう一つのハブ空港が成田であろうと羽田であろうと余り関係ないという気持ちがあったのかもしれない。残念なことに会談はそういう成り行きにならず、羽田空港の国際ハブ化のみがクローズアップされた。これを受けて橋下知事は「羽田空港だけでなく2つのエンジンが必要」として「福岡空港や中部国際空港でも僕はいいと思っている」と話した、という。

 さらに橋下知事は「羽田以外のもう一つは関西国際空港でなければいけないというわけではない」と殊勝なことを言っていたが、すぐさまリニア中央新幹線構想に触れ「大阪の拠点は北ヤードだと思っており、さらに関空やベイエリアにつなぐことを念頭に置いている」と述べたから、やっぱり関空のハブ空港化かまたはそれに等しい国の支援を要求しているのは間違いない。その上、もしそれがムリなら大阪府が支出している関空関連施策の8億円について来年度以降の凍結を示唆し、脅しともとれる圧力をかけている。

 森田健作千葉県知事は前原国交相の羽田空港ハブ化の表明について「悔しくて眠れなかった、冗談じゃない」とお怒りになっているが、この人は自分の言葉に酔って激昂するタイプだから少々割り引いて聞いてやる必要がある。14日の前原国交相との会談後は、あの怒りがウソのように笑顔でインタビューに答えていたからやっぱりね。報道では前原国交相が羽田のハブ化についてトーンダウンしたように報じていたが、森田知事との会談で大臣は羽田空港をハブ化しないとは言っていないようだし、1)2つの空港を一体的にとらえ合理的なすみ分けを考える2)意思疎通をはかる、と言ったにすぎない。この程度で納得するくらいなら血管浮き上がらせて拳を振り上げることもないだろうに、と思ってしまう。

 橋下大阪府知事や森田千葉県知事のみならず、地元に空港をかかえる首長さん方はみな自分のところの「府益」「県益」「市益」「町益」を守ることに一生懸命だ。「国益」という言葉があるなら、「府益」「県益」などの言葉もあっていいわけで使わしてもらったけどあまりポピュラーではないようだね。
 
 とにかくあたしが言いたいのは、国と自治体がこういうエゴの張り合いをやっている限りいつまで経っても日本に国際ハブ空港はできないだろう、ということ。むしろこういう姿を見ていると日本に国際ハブ空港が本当に必要なのか、と疑問に思ってしまう。

 すでにバンコク・スワンナプーム、シンガポール・チャンギの両空港が国際ハブ空港として100%機能している。これらの空港は東南アジアの他都市やオセアニアの中継地点として非常に有利だという地理的条件が大きく作用しているんだ。香港はハブ空港といえるかどうかというところだね。韓国の仁川空港、上海の両空港は欧米の航空会社に言わせると、日本で言うほどハブ空港としての魅力は少ないらしい。日本の空港のハブ化論議でよく引き合いの出される仁川空港はどちらかといえば着陸料の安さで魅力的なんだ。日本の空港の着陸料のベラボーな高さを言わずして、いくら滑走路を拡張し、設備を立派にして国際ハブ化を唱えてもしょうがないんじゃないの。

 現在、この狭い日本に空港は98もあるんだ。国土面積では世界で61位の日本が空港数では16位であるということは、いかに空港が多いかということだ。それらの空港が互いに客を奪い合っている。計画の段階ではバラ色の予測を掲げているが、実態とかけ離れた数字を誰も信じていない。それでも「地域の活性化」という掛け声で、新しい空港が次から次へと雨後の竹の子のようにできるのを誰も止めようとしない。挙句の果てにパイの奪い合いだ。かってのような経済の発展が望めない中で、激減した利用客の奪い合いをせざるを得ないような空港の乱立を認めてしまう地方行政の貧困を憂うのはあたしだけ?

 あたしは、なかなかできないダムの代名詞として過去に頻繁につかわれた「東の八ッ場、西の大滝」をこの「成田空港」と「関空」に置き換えてみた。「東の成田、西の関空」というわけだ。その過程は同じ様なものだ。ダムの方はどちらもまだ完成していない。成田も関空も完工していない。着工時に争いや流血などがあった公共工事はいろんな問題がいつまでも尾を引く。まして死傷者が出た成田は今もなお強固な反対運動があって、滑走路の拡張工事がうまくいかない。関空は大阪空港(伊丹)との競合で需要が伸び悩んでいる。

 せっかく造ったけど、都心まで遠い(成田、関空)、滑走路が延長できない(成田)、着陸料が高い(成田、関空)、既存の空港が近くにあり競合している(関空)とすれば、既存の空港で都心に近く、利用者も多い羽田空港や大阪空港が可愛がられるのは当然かもしれない。ただ大阪空港は羽田空港と違い、三行半を突きつけられそうになった空港である。それは関空ができたら騒音問題が大きい大阪空港を廃止するような雰囲気で事業が進められたことである。大阪空港が廃止されれば新しい空港を造らざるをえないという心境にさせておいて新空港着工にこぎつけたんだ。ところが関空が開港しても交通の便がよい大阪空港に以前と変わらない利用者があるのをみて、騒音問題はどこ吹く風といった感じで未練をたちきれず、大阪空港廃止反対に流れが変わってしまった。戦略なき日本の航空行政の典型がここにある。

 日本に国際ハブ空港などはいらない。外国の航空会社から見て、地理的にハブ空港になるメリットがほとんどないのだ。今の飛行機は航続距離が伸びてアメリカ本土から一気に東南アジアに飛ぶことができる。もし、韓国の仁川空港や上海、香港などの空港と張り合うのであれば、着陸料を大幅に下げればよいのであってハブ化論争はムダな論議であるとあたしは思うのである。

2009年10月11日日曜日

「鞆の浦」訴訟、広島県が控訴

 やっぱりというべきか、当然というべきか。鞆の浦の埋め立て架橋には景観の保護はもちろん自然環境保護の点からも反対のあたしにしてみれば「当然」はないか。
 
 広島県福山市の景勝地「鞆の浦」の埋め立て架橋計画の差し止めを命じた広島地裁判決に対し、県は控訴する方針を固めたという。「鞆の浦」の景観について「定義があいまい」とし、「現在の狭い道路では消防・救急車など緊急車両の通行、災害時の避難は困難で、住民の生命、財産を守る行政として看過できない」ともしている。

 ちょっと待った。「現在の狭い道路を通行する緊急車両の通行が困難」「災害時の避難は困難」というけれど、そうであれば、何も海を埋め立て橋を架けなくても現在の狭い道を広げたら解決するのでしょうに。道路沿いに由緒ある建物が多くて道を拡張できないのであれば、たとえ海を埋め立てて橋を作っても町中の道幅は旧来どおりで何も解決しないじゃないか。 第一由緒あるものは建物だけでなく、海岸、海、そこに広がる空間も同じだ。

 県の説明では、今度の事業は道幅が狭くてそれで苦労している人たちのためになるようなことを言っているが、そこに矛盾があるのは歴然としている。公共事業と言われるたびに散々聞かされた「住民の生命、財産を守る」というおためごかしはもうたくさん。

 海岸を埋め立てもし、橋をつくり、そして狭い道幅も拡張します、というのであれば分かります。でも、そうであれば埋め立ても橋も必要ないんじゃないの。結局、理由はなんであれ、土木工事が必要なんだ。それで総工費55億なにがしかのお金がどこかの懐に落ちれば理由はたいしたことじゃない、ということか。55億でこの「鞆の浦」の景観は買えないよ。

 「いや、埋め立てと橋が出来たら、そちらの方にバスや大型車を通しますので狭い道の渋滞は減りますよ」という回答を県は用意しているだろう。結局、町中を迂回する道が欲しかっただけで「緊急車両の通行が困難」とか「災害時の避難が困難」という理由を挙げても、そういう事態の時には緊急避難的な処置で一般車の通行が規制されるからあまり意味がないと思うよ。

 事業に反対の原告住民は6日、県に控訴しないよう要請し、賛成派の住民も9日、県に控訴すべきと申し入れていた。

 この構図はダム計画時に日本のあちこちで起こった住民同士の抗争とそっくりだ。いつまで同じことを繰り返すのか。日本列島改造論みたいな40年前の古い考えがまだ地方都市に残存していることが驚きだ。かってのような経済発展が望めない今、公共事業で地方を活性化するという、博物館の倉庫の奥から引っ張り出してきたような理論はもはや賞味期限が切れた廃物だ。

 今回の県の控訴では「住民の生命、財産を守る」といって「町の活性化」は引っ込めた。もしそのとおりであれば、世界遺産の登録候補に挙げられるほどの景勝地で、かつ住民の財産である「鞆の浦の景観」が破壊されるのを看過しないで行政としてしっかり守って欲しい。

2009年10月10日土曜日

ノーベル平和賞に米・オバマ大統領

 ノルウェーのノーベル賞委員会が今年のノーベル平和賞を米のバラク・オバマ大統領に授与すると発表したことで、当の本人が驚いているくらいだから周りの人が驚愕するのは当然だ。

 オバマ大統領は「私への賞は、今まで受賞した人たちと同列に評価されるべきものではない(英語の意訳で多少ニュアンスは違うかも)」と言っていたけど、なぜ外国の政治家はこういう超弩級クラスの出来事に対しても、さりげなくも粋な発言ができるのだろうといつも感心する。

 オバマ大統領の受賞に対して早速やっかみ半分ともとれる声が聞こえてきたよ。ホワイトハウスの定例記者会見では「おめでとう」の一声さえもなかったんだって。共和党や保守派はもっと辛らつ。「アメリカ国民からはいかなる賞ももらえない」といい、ノーベル賞委員会に対しても批判したという。

 石原東京都知事は「ノーベル賞というのは、かなり政治的なものだからね」といつもの調子だ。この人オリンピック招致に失敗した時にも同じ様なことを言ってなかったかな。負けたときや自分に関係ないものは、すべて政治のせいにするんだ。

 パレスチナやアラブの人たちにとっては今回のことは余り関心がないみたいだね。いかんせん実績がないのにノーベル賞を受賞するんだからね。無理もないと思うね。

 しかし「核を無くす」とか言っただけでノーベル平和賞を授与するなんてある意味ではすごいことだと思う。裏を返せば、今までの米大統領の中にそんなことを言った人はいなかったわけだ。何千発もの核ミサイルを保持しながら、「核廃絶」と大きな声で言っても「そういうあんたのお国には何がある?」と冷やかされるのがオチだろう。やはり授与の大きなファクターとなったのは、米歴代大統領ではじめての黒人であったこと、共和党政権から民主党政権に移ったことだと思う。その変化が劇的であればあるほど、過去の呪縛にとらわれることは少なくなるからね。

 今年4月、オバマ大統領がプラハで行った演説が今回のノーベル平和賞授与のきっかけになったと思う。これから実績を積み重ねていかなきゃならない大統領は、ちょうどボルト選手と同じ組でスタートラインに並び、走る前に金メダルを授けられたようなもんだ。プレッシャーは並大抵のものではないぞー。

2009年10月9日金曜日

花王のエコナは消えてしまうのか

 花王の人気食用油「エコナ」に発がん性物質に変化する可能性が指摘されて販売中止に追い込まれたというニュースは、ずっと前から愛用者であったあたしにしてみれば、心穏やかに済まされない出来事だ。

 特定保健用食品として表示することを許可されていたけど、問題が表面化して8日、花王はこの表示を返上する失効届けを消費者庁に提出し、販売を中止するという。消費者団体などから安全性に疑問があるといわれ、消費者庁が厳しい姿勢を打ち出したことで止む無く販売中止に追い込まれた、というのが本音だろう。でも販売中止になるのは19品目もあるんだよね。あたしの食道を通過したものはどれか、たくさんあってわかりゃしない。

 花王では「エコナ」シリーズの商品で年に200億の売り上げと食品全体の4割を占めるというから、直ちに販売中止にするわけにはいかなかったようだね。あたしの乏しい商品の販売戦略の知識をひも解くと、一つの商品の販売額がその会社の総売り上げの2割以上を占めると経営上あまり好ましくないようだよ。売り上げの大きい商品は看板商品と一時的にもてはやされるが、一方では爆弾を抱えているようなもんだ。ましてや4割も占めていたらその商品を手放すことは経営土台をゆるがすことにもなる。花王も苦しい判断を迫られたんだね。

 ところで、あたしが長年摂取してきた「エコナ」の中で発がん物質の疑いを持たれた成分はあたしの体の中で一体どうなったんだろう。

 「エコナ」に含まれる「グリシドール脂肪酸エステル」というのが曲者で、これが体内で遊離して「グリシドール」になると危ないという。体内でどの程度遊離するかはわかっていないけど、「グリシドール脂肪酸エステル」を多く摂ればその分「グリシドール」に遊離するのも多くなるだろうね。

 「グリシドール脂肪酸エステル」はパーム油に多く含まれるという。パーム油といったら結構たくさんの食品に含まれているみたいだ。食品の成分表示ラベルを見たらわかるけど、あたしの台所にある全ての食品ラベルを見たら怖いので止めた。

 「エコナ」に含まれる「グリシドール脂肪酸エステル」はパーム油の100倍と予測している「2009年8月24日、食品安全委員会新開発食品(第62階)・添加物合同専門委員会」。この委員会でも「緊急に健康影響について調査すべき」であるといっていたらしいよ。

 「エコナ」の安全性に関する厚生労働省のHP上の記述が今年9月に削除されているのを知っていましたか?しかし厚生労働省の他のHPで見ることができるようだ(http://web.archive.org/web/20051001144410/http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/qa/050921-1.html)。

 あたしがいつも疑問に思うのは、こういった食品の安全性について問題点が発覚する数ヶ月前には、必ずといっていいほど監督官庁や関係団体のHPに不可解な行動がみられることね。自分たちにとって都合のよくない情報は削ったり、あるいは余りアクセスしない場末のHPに移したりしている。現に「エコナ」のことについて検索すると10数件に1箇所くらいが削除されていたり、ジャンプ先不明になるんだよね。

 「グリシドール脂肪酸エステル」の安全性について、”「安全性への懸念を明確に示す報告」はないけど、「安全性への懸念を示す報告」はある、というのが現状です”と花王は報告している。 うーん分かりづらい。

 花王で一般食用油と同程度の「グリシドール脂肪酸エステル」を含む商品をあらためて開発しようとしているけど、それだと体内に脂肪をためない効果はないんじゃないの。脂肪をためない効果がない「エコナ」は魅力ないんじゃないかと思うけどな。

 今の世の中、不確かなことにあれこれ迷って神経をすり減らすよりも、ああそうですか、と軽く受け流して生きるのもアリかなと思う。だから「エコナ」の商品が店頭から消え去っても、あたしの体内で遊離した「グリシドール」は消え去らず残っていて、何十年後かにそれが悪さをしたら、という余計な心配はしないことにした。

2009年10月7日水曜日

誤解を恐れずいえば

 今日、あたしは鳩山首相の「故人献金」に対するマスコミ報道について述べたい。

 鳩山首相のいわゆる「故人献金」問題について。重箱の隅をつつくような記事を第一面に載せて恨みを晴らすような新聞があるが、どこかの政党新聞みたいで不愉快そのものだ。これこそ針小棒大の典型じゃないのかね。その新聞の見出しも、いつの間にか、より悪質性を読者に抱かせる「偽装献金」という名称になっているんだ。最初は「故人献金」と言ってなかったか。「偽装献金」という言葉は小沢元代表の大久保秘書が逮捕された時に、ある新聞が意識的に流行らせようと使ったらしいけど、インパクトがありそうだと考えてマネしたのだね。

 それであたしもこれを読んでくれる人に少しはインパクトを与えようと、この記事を書いた新聞を実名で書こうと思ったんだ。でも「光市の母子殺害」の実名本がとりあげられ、そのほうに引っ張られて今回は新聞名を挙げるのはあきらめた。

 しかしね、少なくともイニシャルぐらいはと思って、日本の3大新聞名をそれぞれA,B,Cにしたら実在の新聞の頭文字が入ってしまってマズイんだなあ。特定できちゃうもんね。それではとX,Y,Zにしたら、ここでも頭文字が入るんだよ。最後の手段でL,M,Nを使おうとしたらこれもダメだー。

 結局この方面から持論を展開していくのはきっぱりあきらめて、この頃の新聞が使い勝手がいいという「偽装」という言葉から入ってさりげなく展開することにした。

 偽装といえば「耐震偽装」「偽装包装」「偽装請負」「産地偽装」「偽装米」「偽装サークル」「偽装結婚」「偽装出向」数えたらきりがない。これでわかるように「偽装」の言葉の中には積極的に他人を欺こうとする行為が含まれるようだね。

 偽装で多いのはやはり食品だ。汚染米をはじめウナギやタケノコ、牛肉など本体ばかりでなく賞味期限や製造日、産地の偽装もあったなあ。食品で偽装が多いのは短期間で人間の口に入り、証拠隠滅を被害者自身がやってくれるからなんだ。

 そういう点を考えると日本人というのは狡猾な人間が多いなあと思えてくる。それも次から次へと同じ様な偽装事件が報じられて、これらの人たちに犯罪を犯したら罰せられるという学習能力があるのかないのか。あるとしたら恐らくいかに儲けを多くして、検挙されても罰金を取られても差し引きプラスになるような方法を他の事例を見て考えることぐらいだろうな。

 鳩山首相の「故人献金」の件で、あたしが声を大にして言いたいのは、まだ白黒のつかない問題について、ましてや司法の手に委ねられている事件を、いとも簡単に犯罪のニオイのする「偽装献金」という言葉を使って世論を誘導するような新聞記事に異議を唱えたいということ。センセショーナルな見出しで読者を魅了しようと思っているかもしれないが、読者の中にはあたしみたいなへそ曲がりがいるんだよ。

 法を犯した人間にはそれなりの責任を取ってもらうけど、そうでない者にはしっかりと国政を任せたいと思う。

 民主党政権になって、ようやく庶民の望む事と政府の進む方向が合致しようかとしている時に、水を差すような報道が最近多くなってきている。マスコミの国政に対するチェック機能だというのならば、自公政権時に同じような問題に対して同一の「物差し」で報道したか、と問いたい。

 誤解を恐れずいえば、多くの国民が求める政治を誠実に実行してくれる政府であれば、故人献金であろうと偽装献金であろうと、大きな節目にある日本の現状を考えたら、そんなことは切実な問題ではない、とあたしは思う。公約を守らないことぐらいは大きな問題ではない、と言った小泉元首相とはすこし次元が違うけどね。

2009年10月3日土曜日

2016年夏季五輪開催に東京が落選

 2016年夏季五輪の開催地はリオデジャネイロに決定した。前評判どおりで驚くに値しないけど、シカゴが1回目の投票で落選したのにはびっくり。あたしはシカゴとリオデジャネイロの決戦投票だと思っていたからね。

 その理由として、2012年に夏季五輪がロンドンで開催されることになっており、同じヨーロッパのマドリードで続けて開催するほどの知恵の無さをIOCが露呈するとは思われないし、東京都は1964年に一度開催しており、去年は北京オリンピックが開催されているから、ロンドン開催を間にはさむとしても何度もアジアで開催するのは困難だと思っていた。

 1964年の東京オリンピック以来、名古屋、大阪の2市がオリンピック開催地に立候補したことがある。 今回で3度続けて落選したことになる。たいがいで立候補することをあきらめたら、と思うね。

 1988年の開催に立候補した名古屋はソウルに27対52票で負けた。名古屋五輪を後押しした当時の仲谷義明愛知県知事は1988年11月にライバルのソウルオリンピックを見届けたどうかわからぬが、自殺したという。

 2008年五輪の開催地に立候補した大阪市は1回目の投票でわずか6票に終わり、惨敗した。投票直前、厳しい情勢に当時の磯村隆文大阪市長は記者のインタビューに「こっちには秘策がある」と胸を張って答えたことをしっかり覚えている。結局、何が秘策だったのか、あたしたちには皆目わからぬまま投票に臨み北京市に惨めな負け方をしたよね。あれは市長の何の裏づけもない単なる強がり発言だったことがわかった。これをうけて当時の岡野俊一郎IOC委員は興味深いことを言っているよ。「次にアジアに五輪が回ってくるのは恐らく20年くらい先になるだろう」と。2016年といえば、この年から数えてまだ15年先のことだ。2020年開催の五輪だったら良かったということかな。

 名古屋、大阪、東京と連続の敗退に意気消沈している人もいるが、あたしは当然の結果と受け止めている。都民の中にも必ずしも賛成でなかった人たちの声は今まで抑えられていたんだ。おまけに鳩山首相が応援演説に行くということもあって、なおさら反対しにくい雰囲気になっていた。だからそういう意味では東京が落選したことは決して暗い材料ではないんだ、あたしにとっては。

 オリンピック開催地に立候補した時の最大の弊害は、誘致工作に莫大な税金を使っても、誰も異論をはさむことができない空気になっていくことだ、とあたしは思う。誘致に成功した時の夢を描いて、経済効果が何百億円と言われれば、そうかなー、そうなんだと思い込んで、理性が働かなくなっていく。まだ手にもしない経済効果の何百億円と、コンクリートの構造物にかけるお金を差し引きして「これしきの建設費はすぐ取り戻せる」と思ってしまう。だから誘致に失敗すると、税金で作ったムダな道具や施設がたくさん残ってしまうことになる。こういうことを誘致にのめりこんだ人たちはどう考えているのだろう。都のサイフはそれも気にならないほど潤沢かな。

 これで東京都がオリンピックのためだとかいって、ムダとも思える構造物をがむしゃらに造ることができなくなる。五輪といえば錦の御旗だったもんね。都内にこれ以上、余計なハコモノを造ることがないよう願うけど、東京都は早くも2020年の五輪開催都市の立候補に向けて準備するといっているらしい。ジョーダンじゃない。そういうことに余分な力を注ぐより、もっと都の環境に重きを置いた地道な行政に励んでほしいと思う。

2009年10月2日金曜日

鞆の浦の埋め立てと架橋

 広島地裁は1日、福山市の景勝地、鞆(とも)の浦の埋め立て・架橋計画に「待った」をかけた判決。これこそ地球というかけがえのない所に住んでいる人間がおこなう当たり前の判断だと思うよ。

 広島県や福山市は事業の推進する理由に「地域の活性化」ということを挙げているが、それは周辺の地域だけが便利になるかもしれないだけで、鞆バイパスから県道47号線に続けて県道22号線に抜ける道路沿いに立つ、直接鞆の浦の景観を売りにする商店街や、そこに生活する住民にとってはその景観が損なわれるだけで埋め立ての恩恵はほとんど無いのじゃないの。「地域住民の大半」というがどこの地域住民だろうね。今、離合さえ困難な街中の道路は、たとえ人工の砂浜と200mの橋が出来ても道幅が広くはならないのだろう。橋が出来て街中に入り込めば車はやはり渋滞に会いそうだ。観光客を新しい橋に誘導するのであれば、完成した橋をつかって観光客は鞆の浦を素通りすることになる。いくつかの駐車エリアができたとしても、そこから鞆の浦を眺めるだけで県道47号線沿いの商店まで歩いて行く人はいないだろう。街中の車は減って渋滞は無くなったけど観光客も減ったということにならないだろうか。

 もともとこの計画を立てた時のコンセプトがしっかりしてなかったんだ。浜を埋め立てて、モダンな橋でも作れば、街中の車の渋滞も解消でき、観光客も多くなるだろう、と捕らぬタヌキの皮算用で始めようとした事業だろう。こんなことでお金に換算できない貴重な自然と景勝地をぶっこわすつもりなんだ。

 埋め立てと架橋に賛成の地域住民とは一体誰なんだ。その事業で儲かる土木関係者じゃないのかね。鞆バイパスから街中を通らず直接県道22号線を利用する業者だけじゃないのかね。この事業によって景観が損なわれる一番の被害者の住民の声はどこに反映されているのだろうかと不思議に思う。

 県道22号線沿いで商売している人にとって、この事業は魅力だろうね。鞆バイパスからの客が多くなるかもしれない。しかし通行しやすくなった分、素通りしていく車も多いだろうね。その上、目玉の「景勝鞆の浦」の価値は半減すること間違いなしだ。だれもピカピカの橋を見るために鞆の浦に行くわけじゃない。

 この事業をやらないと多くの生命の危険にさらされるんだ、という明確な理由があるならともかく、今の時代、ただ単に交通が便利になるとか、町の活性化とか抽象的な理由をつけて、かけがえのない自然をブルドーザーでぶっ壊すような計画を安易に立てるな、と言いたい。

 どうしても鞆バイパスと県道22号線を結びつけたかったら、山側にトンネル作ったらいいんだ。今の技術では簡単につくれるだろうよ。工事費はかさむだろうけど・・・。自然には代えられない。

 埋め立てと架橋ができても便利になるのは鞆の浦の街中の狭い道を敬遠する車だけということだ。この事業によって、実際に景観を損なう鞆の浦の街中の商店には恩恵が無く、周辺の県道22号線沿いにある業者あるいはその周辺だけにメリットがあるという構図になっている。

 こういう摩訶不思議なことで、多くの税金を使って自然を破壊しようとする鞆の浦の埋め立てと架橋工事にあたしは断固反対する。立派な名目を立てれば立てるほど、裏に胡散臭いハカリゴトが隠されている。それは多くの事例で明らかだし、これからも明らかになるだろう。