2010年2月26日金曜日

トヨタ社長の涙

 米トヨタの工場で働く従業員やディーラーの対話集会で、公聴会を終えたばかりのトヨタ自動車の豊田章男社長が涙ぐんだ映像を見て、あたしは、日本のリーダーというのはなんとひ弱い神経しか持ち合わせていないのだろうかと思ってしまった。まるでいじめっ子に苛められて、急いで帰ったら母親に慰められて、思い出し泣きした子どもだ。

 3時間もの公聴会では痛烈な質問を浴びて頭は下げっぱなしで、20兆円以上の売り上げ(2009年3月期決算)があった大会社の社長も、さすがに従業員たちの慰めの言葉には感極まったというのはわかる。それは日本人の感情として理解できるのであって、涙ぐむことはなかろう。現地の従業員たちは社長が涙ぐんだのを見て一瞬静まり返ったというから、米国人には理解しがたい光景であったかも知れぬ。AP通信は、「日本では間違いを認めるのは美徳で、泣くことはその象徴」とする見方があると紹介しているが、わざわざ説明しなければならないほど、こういう場面でリーダーが泣くことは米国では奇異に見られるのである。

 大会社の最高権力者は、それ相応の艱難辛苦を乗り越えてその権力を手に入れたと思うのがアメリカでは一般的である。ところが、昨年6月に就任した豊田章男トヨタ社長について、一部のマスコミは「こども社長」とネットで揶揄されていると報じていたほどの人物像である。あまりマスコミのインタビューに応じないこの社長が、今回の公聴会への出席を避けたかったのは当然だろう。抜き差しならぬ状態になって公聴会に出かけたが、答弁が大会社の社長らしくなく、素人くさかったことがかえって誠実に取られたのはケガの功名だとしても、日本人のあたしから見ると、神妙な顔つきで謝罪する同じ姿が日本国内でも見られるかどうかはわからない、と思うと複雑な気がする。日本では、恐らく上から目線で、木で鼻をくくったような言葉しか聞けないだろう。

 会社のトップに就任するまで精神的に叩かれたことのない経営者は、己の会社の業績に関する限りにおいて、会社の不振やトラブルに必要以上に狼狽し、怒り、涙を流す。こんな状況の時に経営者に必要なのはまず強固な精神力、そして洞察力と予知力だ。

 豊田社長はこれから先のことについては素晴らしい言葉で約束(!)しているが、これまでのことについては、できなかったことへの反省ばかりである。そうなるとこれまでの車はすべて、安全意識に欠けた環境で生産されたことにも受け取られるが真意はそうではないだろう。あれも誤りでした、これも不十分でしたと、海の向こうではペコペコ頭を下げる経営者ほど見苦しいものはない。トヨタ車を販売した他の国や日本でも消費者に対し、同じ様に頭を下げるのだろうか。

 AP通信は、この公聴会で豊田社長が通訳の合間を利用して次の証言を考えていた、と報じているがその見方は外れている。もしそうであれば、集会で慰めの言葉をかけられただけで涙ぐむはずがない、とあたしは思うのだ。

 大会社の社長がちょっとした慰めの言葉だけで涙ぐむのであれば、08年から09年にかけて数千人もの期間従業員の首を切らざるを得なかったという非人道的なことに対し、トヨタの経営陣が涙を流してもいいはずなのに、このことで一粒の涙さえも流していないとは、涙ぐむシチュエーションを取り違えているのではないかとさえ思う。それとも涙腺は、会社の保身のみに反応するようになっているのだろうか。

 トヨタは07年度に13兆円を超える内部留保があった。もちろんすべてが現金ではないかもしれないが、これらは社会保険から除外された安い給料で昼夜働いた期間従業員が稼ぎ出したものでもある。

 フロアマットが原因でアクセルペダルの戻りが利かないことから始まったトヨタ車の一連のリコール騒ぎは、ただ単に物理的、電子的なトラブルだけを解消したら終わるものではない。日本ではなく米国の公聴会で、具体的でないにしろ過ちを認めたということは、今までのトヨタ車に関するトラブルはすべて責任を認めるということである。何十兆円もの売り上げを遂げてきたガリバー的会社が、今までの儲けや内部留保金をことごとく吐き出さざるを得ない状況に誰がしたのであろうか。あたしは今回のことで、「千丈の堤もアリの一穴から崩壊す」ということわざを思い出す。そのアリが些細なクレームのことなのか、物を捨てるように首を切られた期間従業員のことを指すのか、それはわからない。

2010年2月23日火曜日

長崎県知事選敗北原因は天狗になった民主党だ

 長崎県知事選挙で民主党など与党が大敗北したことについて、鳩山首相や小沢幹事長の「政治とカネ」問題が大きな原因だとしている閣僚らの発言は、それまでさんざん鳩山首相や小沢幹事長のやってきたことは大悪事だと偏向報道をしてきたマスコミに迎合するものだ。その証拠にどの新聞もテレビも閣僚と同じことを言っているじゃないか。そりゃ小沢幹事長だけに限らず今時の国会議員は誰であっても重箱の隅を突くようなことをされればグレーな部分は出てくるだろう。ただ民主党であればそういう国会議員は少ないかなと思っていただけだ。そんなことは自公政権時の閣僚たちには山ほどあったことをもはやお忘れではあるまい。与党になればそれだけ責任は重いというが、この半世紀、与党であり続けた自民党に同じ様な疑惑の人間が星の数ほどいて、どれほどうやむやになったかわからない。小沢幹事長だって昔は自民党にいたのだから、自民党的体質は色濃く残っていて他の人よりはそれは濃いかもしれない。そんなことは民主党員であれば周知のはずだ。その上で自由党と合併したのだろうよ。当然、本人の周辺にいる人ならば小沢幹事長がどういう人間か分かりすぎるほどわかっているはずだ。彼が不起訴になっても犯罪者のごとく報道され、白黒も確定もしていない「政治とカネ」の問題が、あたしたちの毎日の生活に直ちに大きな影響があるならともかく、今突然に彼の大悪事がバレて選挙に影響したかのような表現で大騒ぎするマスコミ報道とシンクロするような閣僚の発言は、先の衆院選挙では彼の手腕を利用し、今では長崎県知事選に負けた原因を彼のせいにしようとする狡猾で幼稚な言い訳としかあたしには聞こえない。

 長崎県知事選挙で民主党が負けた最たる原因は、この半年間のメリハリのない鳩山首相の政権運営と、選挙地に乗り込んだ民主党石井一選対委員長の地元民に対する恫喝だ。フラフラとダッチロールする鳩山政権のことは後述するとして、問題は石井一選対委員長の発言だ。誠実でクリーンさを売り物にする民主党の国会議員がこういう馬鹿げた恫喝をやっていたとは、あきれかえってしまうと共に、もしこの敗北がなければ長崎から遠くに住む国民には最後までわからなかったかもしれない、と敗北によって知りえたことに妙な安堵感を覚えたあたしだ。

 この選対委員長の恫喝を聞けば聞くほどあたしは怒り心頭に発する。このようなことを地元民に平然と言う人間が国会議員、それも民主党にいることにも驚くが、選対委員長でもあることにさらに仰天だ。もしあたしが長崎県民であれば演説会場の席を蹴って抗議の意を示したい。この選対委員長の発言に乗じて、閣僚の一人が調子に乗って利益誘導まがいの発言もする始末だ。「政治とカネ」の問題よりも、長崎県の有権者は石井一選対委員長の恫喝にカチンと来たに違いない。「欲しけりゃアメをくれてやる。その代わり言うとおりにせい。でないとどんな目に遭うかわからんぞ」といっているのと変わりない。馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言いたい。この選対委員長の発言に対する反動で自民党系の候補者に票を入れた者が多いとあたしはみている。九州人の性格を読み誤った結果だ。

 鳩山首相は「政治とカネ」の問題が大きく影響したとか言っているが、本当の原因はそんな表面的なもんじゃない。政権を奪取して半年経ち、昨年の衆院選で民主党に票を入れた国民は、民主党の体質がそれまで思っていたものと違っているのを感じ始めた。毛嫌いされてきた旧来の自民党的体質を引きずる者が小沢幹事長だけでなく、選対委員長あるいは平野官房長官、そしてそのほか幾人かの閣僚や民主党国会議員にも潜んでいることが国民にもわかりかけてきた。平野官房長官の所業についてあたしが許せないのは、あの官房機密費についての対処の姿勢が自公政権と全く変わらないということだ。あたしたちの税金である官房機密費について知らぬ存ぜぬと、とぼけた発言そのものがもう国民の政権ではないということを表す。また麻生政権が政権交代の直前に違法な持ち逃げ(あえて持ち逃げと言う。反論するならその証拠を)した2億5000万円もの官房機密費についてなんの調査もしないと言った平野官房長官は国民の生活が第一と掲げる民主党のどういう存在?。あれゃこれやのことで鳩山政権に懸念が生じるけれど、石井一選対委員長の長崎における発言はこの懸念を一層強めるものとなってしまった。

 この半年間、鳩山内閣でマニュフェストどおり具体化された主要なものは何一つない。検討中のものばかりである。自公政権下でがんじがらめに組み立てられた制度を壊して、民主党が進める新しいものに組み替えることは容易ではなかろう。しかしその組み立ての緒にも達していないのはどうしてか。それぞれの閣僚などを見ていても大臣のイスに座れただけで安心し、ふやけた天狗の面構えになっている。こういうスローテンポな政権運営では、官僚どもに反抗するための準備時間を与えてしまい、政治主導なぞ絵に描いたモチとなる。内閣支持率の後押しがあればこそ実現できる政策であるのに、今やそういう状況は過去のとなってしまった。

 長崎県知事選で大惨敗したにもかかわらず首相や閣僚の発言はアマチャンで、誰一人選対委員長の長崎での恫喝発言を取り上げようとしない。小沢幹事長の威厳が翳った今が言い時じゃないのかい。それとも選対委員長が怖いのかい。もちろんこんなことはマスコミの前で言う前に、本人の目の前できっぱり言うことだ。柱の影に隠れて言うような女々しい(差別用語か?)態度はとるなっていうんだ。

 「政治とカネ」の問題といったぼやけた理由付けをしないで、長崎県知事選の敗北原因は、「利益誘導と恫喝にもとられる現地での選対委員長の発言があった。この点を長崎県民におわびしたい。小沢幹事長と私のことも少なからず影響はあった」とでも言えばよかったのだ。その上で恫喝した選対委員長の更迭について言及すれば、これ以上長崎県知事選の敗北責任を問われることはなかろう。同時に民意を反故にする平野官房長官も鳩山政権の命取りになる恐れがあるから有無を言わさず交代させる。それでこそクリーンさを目指す鳩山内閣がようやく独り立ちの緒についた証にもなる。鳩山首相からみればこんな大それたことをやれそうにないことを承知であたしは言っているんだが、できれば大したものだ。

2010年2月21日日曜日

おやおや「きっこのブログ」が・・・

 2月20日の「きっこのブログ」では、フェブラリーステークスについて「ギャグ」を書いていたが、この中で「フェブラリーとは図書館のことで云々」と書いてあって、それを見た読者から、「フェブラリーは2月のことです」ときっこさんに指摘があったそうな。翌21日の「きっこのブログ」で彼女(彼?)自身が、「あれはツッコミを入れたノリツッコミ」「フォローまでしてるのに」と言って、フェブラリーが2月だってことぐらい百も承知で、ギャグのつもりで書いたんだと言っている。

 あたしも20日のブログを読ましてもらったが、ここでギャグを入れる必要性があるのかなあと思いもし、さらにフェブラリーをワザと「図書館」と取り違えてまでして効果のあるギャグが生まれたとも思えなかった。

 競馬方面に詳しい人なら「フェブラリーステークス」の由来は毎年2月に行なわれることから名付けられたのは知っていると思うので、競馬マニアとも思われるきっこさんが知らぬわけはないと思う。

 どうしてフェブラリー=図書館という公式でギャグを挿入したのか、きっこさん一流のノリノリツッコミギャグだったのか、あたしの偏差値ではとうてい理解できぬが、20日のブログを読めば読者の多くは「あれ?フェブラリーは図書館とちゃうちゃう!」と一瞬思ってしまうのも無理ないのではないかなあー。21日のブログで本人は、今までのブログを読んだ読者の中に、今回の「フェブラリー」みたいにギャグが通じていない人がいるのではないかと心配している。まあ世の中にはギャグが通じる相手、通じない相手がいるとは思うが、「きっこのブログ」を読んでいる人は、一般常識は持ち合わせている人が多いのではないかと思うので、そういう人たちに通じないギャグはやはりまずいのかな、とも思う。

 21日の「きっこのブログ」を読んでいて、あの自公政権で数多くの失言をした政治家たちが「そういうつもりで言ったわけではない」「誤解を招いたとしたら・・・」と、聞き手に問題があるような釈明がそれこそ山ほどあったが、フトそういうことを思い出した次第。

2010年2月19日金曜日

国母、メダルが獲れずに残念とは思わない

 服装の乱れなどから、HPで勝負する前から日本世論のブーイングと勝負しなければならなかったHPの国母和宏選手は結局8位入賞に終わったが、このことは国母本人にとっても、全日本スキー連盟、日本にとっても「よかった」とあたしは思っている。

 もし金メダルでも獲っていたら、日本の代表としてオリンピックに出場することの意味と目的を十分に知らぬまま、また次回のソチ冬季五輪に参加する可能性があった。そうなれば、今度は国母選手のHPとしての選手生命にも影響を与えるような不祥事が絶対に起こらないとも限らない。そのことは前回のブログに書いた。

 今回の不祥事を起こしてから連盟がとるべきだった最善の方法は、出場を辞退することだったとあたしは思う。最初は連盟もその方向を考えたらしいが、橋本聖子団長に反対されたという。国母選手の今回の結果を見て、橋本団長は「出場させた自分自身の判断は間違っていたとは思わない」と言った。しかし同時にこういうことも言っている。「五輪では競技力だけが求められているのではない」と。

 一部の人たちは今回の件について、自分の政治に対する信条と絡み合わせたと思われるような理由から、国母選手の服装の乱れ等についてこれを統制することは全体主義につながるとか何とか言って彼のふるまいを擁護しているが、あたしは違うと思う。オリンピックには政治を絡めてはいけないと声高に叫んだ人たちから、そういう言葉を聞くのは理解に苦しむ。国母選手の「腰パン」に対して見苦しいから止めよ、と言う声があった直後の会見で「チッ!」「うるせーな」「反省してま~す」と発言する日本の代表選手に抗議した事で、いったいどういう政治問題が含まれているのか知りたい。「全体主義につながる」とはまた大げさな理由を見つけ出してきたもんだ。

 「腰パン」は人種問題と世代間対立のメッセージをはらんだ一種のファッションで、発祥は米国といわれている。個人の趣味の範囲で、そこらへんを腰パン姿で歩く程度ならば、顔を曇らせる人がでてくる位ですむが、オリンピックで国の代表(あるブログではオリンピック選手は国の代表ではないと言っている)として出場するのであれば、それに見合う服装と言動をしてもらいたいもんだ。わからなければ教える。守らなければ罰を与える。これはオリンピックに限らず、民主国家では当たり前のことだ。

 優れた才能を持っておきながら、意味のない悪態をついて、それをカッコイイと思っている若者を、あたしはチョイ悪青二才と呼んでいる。本当は素直な心を持っているのだが、それが照れくさくてわざと悪人ぶる。一連の騒動であたしは国母選手にそれをみた。

 国母選手のご両親はそのことが一番わかる場所にいる。また今回の件が多くの日本国民に幻滅を与えたこともわかっておられるようだ。8位入賞は国母選手にとってそれこそ「チッ!」というものであろう。この反発心は優勝を狙う上で大事なものかもしれないが、人に向かって言う言葉ではないということを悟ってもらい、4年後にはソチの選手村で彼の口から素直な言葉が発せられるのを期待している。

2010年2月16日火曜日

腰パン国母選手が私費で参加しているのなら不問

 服装の乱れから抗議殺到のHP男子代表の国母選手であるが、同情的な意見も少なからずあることにあたしは驚く。と同時に、メダルが獲れるのであればこんなことも帳消しになって、大したことないと寛容するその不純な理由付けにも不愉快だ。

 腰パンだとか、牛のような鼻輪をつけることは、個人の趣味の範囲だったら一向に構わない。しかし、20歳を過ぎたいい大人が公共の場で披露するファッションではなかろうし、ましてや税金で賄ったであろう衣服を着、旅費も出してもらっておきながら、立派な評論家たちが、画一的な規制はどこかの国のようだとか、許された個人の演出の範囲だとか、挙句のはてには全体主義につながるとか言っているが、少しピントがぼけていませんか?と問いたい。もしこんな選手がちゃんとした反省(最初の謝罪は論外で、2度目の記者会見も?)もせず、ふさわしい罰も受けなかったら、たとえメダルを獲ったとしてもその重みは半減したものになるだろう、というのがあたしの考えだ

 それでも国母選手のHPの能力は捨てがたいものがあると言うのであれば、深夜のコンビニや駅前広場のボード使用禁止区域で、国母選手のワザにも相当するようなものを持った腰パン野郎や鼻輪を下げた小チンピラがワンサといる。彼らをオリンピックに連れ出したらメダルが容易に獲れるだろう。なぜそういう人間を選ばないのか。

 彼らはたまたま国母選手のように他人に認められるような人生を歩んでくることができなかったため、オリンピックなどと程遠い世界にいるが、あたしはそういう人たちがいても、その若者らの埋もれた才能を褒め称えたり、惜しいと感じたことは少しもない。それは彼らの素晴らしい技量に見合うのと同じくらい、社会のルールを守ったり、人間として恥ずかしくない振る舞いをする素質があるかどうか、彼らの風体からはどうしても判断できなかったからである。

 日本代表選手としてオリンピックに出場するのであれば、国際舞台に立つのにふさわしい最低限の品格がどの選手に備わっていると考えるのは当然だ。今回の件は成績至上主義一辺倒で、最低限の躾さえも教えてこなかった連盟に大きな責任がある。

 今更どうにもならないが、あたしは国母選手を帰国させるべきだったと思う。国母選手は「HPの一部がオリンピック」と言っているから、帰国させてもショックはないはずだ。これは彼にとっても、指導できなかった全日本スキー連盟にとっても、またそのような選手を送り出した日本にとっても大きな痛手だけれど、これがまさしく彼と連盟と日本に対するふさわしい罰であったと思うのだけど。

 国母選手が幸いにメダルを獲得したならば、今度の不祥事に見合った罰を必ず受けるかという保障はどこにもない。連盟も日本の世論も拳を下げ、温情あふれる微罪として済ますだろう。国母選手にとっても、多少のルールを犯しても適当に謝罪すればなんてことない、メダルを獲りさえすれば世論なんて甘っちょろいものさ、という認識を持ったまま、チヤホヤされて次回の冬季五輪開催地ロシア・ソチに腰パン姿で出かけることだろう。

2010年2月13日土曜日

与謝野鉄幹も泣いているぞ!

 昨日(12日)の衆院予算委員会で、自民党の与謝野馨元財務大臣が鳩山首相を「ヤクザ」「平成の脱税王」と評したことで、あの与謝野晶子・鉄幹の孫だという血統の重みは半減どころか、皆無に近くなったと思うあたしだ。

 もちろん鉄幹どころか、与謝野晶子も泣いているだろうことは、別のところで書かせてもらった。当の本人は、祖父母に当たる著名な歌人が悲しむような恥ずべきことをしたとはツユにも思っていないようだ。ならばここであたしが、昨日の国会で彼がどれほど間抜けた質問を国の最高権力者にぶつけたか、情報源であるとする鳩山邦夫元総務相の発言を俎上に上げようじゃないの。この際、実の最高権力者は別にいるとか、影の権力者がどうのこうのという議論をする気はない。与謝野氏は国権の最高機関である国会という場所で、国内外が公式に認めている日本の最高権力者に向かって「ヤクザ」とか「平成の脱税王」と言ったのだ。この国会議員ましてや与謝野晶子・鉄幹の孫といわれた由緒正しき血筋を引き継ぐ与謝野氏のこのような発言によって生じるであろういかなる結果も、すべて彼が負うべきだ。あたしが思うに、この発言は委員会で取り上げ、検討されるべき性格のものだ。

 この質疑で与謝野氏が唯一の根拠にしている鳩山首相の実弟、鳩山邦夫元総務相から聞いたという話の中に、首相が直接母親に無心している現場を見たとか、あるいはそのようなことを直接兄から聞いたということはひとつもない。そのことは邦夫氏が記者団に語ってるから明らかだ。邦夫氏は「誰か知らぬが母に連絡を入れて云々」と言い、さらに「兄が言ったのか、秘書が言ったのか知らないが」とも話している。

 母親は電話口で「お兄さんは子分を養うためにお金がいる、と。あなたは子分がいないからいらないの?」と言ったという。これは弟が語ったものだから、兄弟仲違いしていれば、言葉にどんな虚構が隠されているかわからない。かりに母親の発言がこの通りだとしても、どこにも鳩山首相から無心されたという言葉がない。むしろあたしが奇異に思うのは、この後の会話について邦夫氏が何もしゃべっていないことである。母親から「あなたはいらないの?」と聞かれれば「いる」「いらない」のどちらかの返事をするのが自然だ。邦夫氏はどういう返事をしたか。彼は子分がいない辛さを感じたと言っているが、お金の要不要については言及していない。弟にも「知らないうちに」母親から年1億8000万円ものカネが母から提供されていたというから、与謝野氏に兄の「悪行」を思いきり伝えてみたが、それは天に唾する行為でもあったんだ。結局邦夫氏はこのことによってあらためて自分の墓穴を眺めたようなもんだ。

 鳩山首相と邦夫氏に母親から資金が提供され始めたのは平成14年ごろからというのが確認されている。すでに母親から定期的に資金提供がなされているのにわざわざ電話があったというのも信じがたいが、事実としたら、母親から資金の提供が弟にもあったという事が暴露された昨年末のマスコミ報道に対して、「寝耳に水」という邦夫氏の発言は真っ赤なウソの可能性がある。なぜなら母親から電話があったという1年半から2年程前といえば既に母親からの資金提供は「子分のいない」弟にも実行されているからである。母親からの電話は邦夫氏に対する追加の資金援助が必要かどうかの確認だった、とも考えられるじゃん。だとすれば、この時点で邦夫氏はすでに母親からの資金援助は知っていたことになる。第一、「アンタお金必要?」と尋ねられたら、その後の自分のお金の出し入れに関心は持つもんだ。秘書ではなく当の本人にかかってきた電話だからなおさらだ。ましてやこの時には兄に母親からカネが渡っていたのを知っていたのだから、自分だけが援助を断ったのであれば、昨年末に母親からの資金提供が発覚した際の発言は「寝耳に水」じゃなくて、「私は断った」というべきだろう。そして今回の電話の件もその時、明らかにすべきだった。そうすれば兄より潔白だと証明できたのになぜそうしなかった?

 この母親から弟に電話があったということを聞いて、邦夫氏が母親の資金提供を知らなかったというのは事実でない気がする。兄は知っていたというのであれば、弟も知っていたという構図になる。弟は知っていたが、兄は知らなかったという構図も無理なく描ける。このところを邦夫氏は考えて与謝野氏に話したのであろうか。麻布中学、東大法学部を卒業した与謝野氏も、さすがにそこまで考えをめぐらすことはできなかったか。

 とにかく兄弟げんかの果てに飛び出してきたような話に飛びつく与謝野氏も、今回の件で並みの国会議員どころか、自分の国の首相を低俗な言葉で中傷するだけのヤクザ映画を愛する非常識極まりない一老議員だと知って、鉄幹さんも泣いていらっしゃるに違いない。

2010年2月8日月曜日

供述はいつも真実とは限らない

 郵政不正事件で虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた労働省元局長、村木厚子被告の第5回公判が8日、大阪地裁で開かれたが、証人として出廷した塩田幸雄・元障害保健福祉部長が、村木被告に証明書の発行を指示したことについて、「(捜査段階)当時はそう思い込んでいたが、今では記憶にない」と述べ、村木被告へ指示したこともあわせて民主党議員の口利きは「思い込み」と証言した。

 元部長は証明書発行後の国会議員との電話とのやりとりについても、検事から「交信記録がある」と言われ、最近になって別の検事から「ない」と言われたことを思い込みの根拠にしているという。

 捜査段階で元部長は民主党の石井議員から口利きを受けたと供述していた。供述を翻した理由について、元部長は、「その件に関してはぼくが関わっているのが当たり前だと自然に思ったので、調書にサインした」と言っている。これは供述調書が必ずしも真実でないことを言っているようなものだ。このことからあたしたちは、たとえ検察官の下であろうと、そこで得られた供述というものが必ずしも真実であるとはいえないことを改めて知るべきだ。

 元部長はその時の検察の取調べにおける自分を次のように語っている。「一定の大きなストーリーの中で私の立場が位置づけられたように思う。壮大な虚構ではないかと思い始めている」。

 別の被告、凛の会主要メンバーの倉沢被告は担当検事から「あなたの記憶違いだ」と言われ、何度も供述を変えている。すなわち「村木被告から直接証明書をもらった」、「村木被告を紹介されたが名刺交換はしていない」、(倉沢被告の目の前で)村木被告から郵政公社に直接電話をしてもらった日には結局「村木被告とは会っていない」などと供述を変えたことだ。

 当時、村木被告の部下であった上村勉被告は、捜査段階では村木被告の指示を認めていたが現在単独犯を主張している。

 村木被告の初公判があった先月27日、「凛の会」元会員・河野克志の弁護人は、同被告が捜査の段階の取調べで検察官の意向と反した供述をすると、机をたたいて「逮捕するぞ」と脅したり、拘置時の取調べで村木被告らとの共謀を否定すると、別の検察官から「長くなるな」などと言われたという。これが自由で民主的な国といわれる日本で現に今、行なわれている事とは到底思われない。彼の国で行なわれていることと紙一重ではないか。後に証拠となるような物理的な痕跡が体に残らぬよう極力暴力は控えているが、精神的には治癒できぬほどのダメージを受けているのだ。それも真実を述べることではなく、検察があらかじめ作り上げたストーリに合致するような供述でないと、許しを請うことができない民主国家の検察権力とは一体なんだ。

 検察側は昨年12月末の段階で「捜査段階では上司や部下、関係者ら全員が村木被告の関与を証言した。縦、横、斜めすべてガチガチに証拠が固まっている」と言っていたが、ガチガチに固めたものは自分たちの誤った思い込みだったのではないか。

 さらに付け加えれば、大阪地検特捜部はこの事件の供述内容を記した取調べのメモを廃棄したということだ。こういうメモは公文書の性格をもっており、村木被告の弁護人は「信用性の判断を妨げる行為」として批判している。

  あたしの父親は戦時中、下級に属する憲兵のようなことをやっていた。そこで憲兵と警察がお互いの成果を競うため、多くの無実の人間(それも現地の人でなく日本人の方が高い評価を得た)が血祭りに上げられるのを目の当たりに見て、きれいな夕日が沈む遼東湾に、何度身を投げようかと思っていたと、満州の奥地から引き揚げてきて、舞鶴の港に着いたとたんに息せき切ったようにあたしに話してくれた。そして父は最期に付け加えた。本来ならば、同じ人間を拘束し、尋問するような権限を持つ組織がこの世にあってはならない。それができるのは神しかいない、すべての人間が一人残らず迎えるであろう「死」という形で・・・。不幸にしてそのような制度をつくらねばならない世の中になり、そこで人間として不当な扱いを受けるようなことがあったら、もはや人間社会は末路にさしかかったと思うがいい。

2010年2月4日木曜日

朝青龍の引退は当然

 朝青龍が引退することになった。一般人に怪我を負わせた今回の件がきっかけだとはいえ、今までスポーツ新聞どころか、一般紙の紙面を相撲以外の違う場面で飾り立ててきた初場所優勝者の末路は哀れだ。優勝すれば、強ければの一言で、ほかの多くの不祥事には目をつむってきた相撲協会にとって、目玉商品がなくなることは痛手だろう。これも自業自得以外のなにものでもない。あたしにとってみればザマーみろって気持ちになる。いや、日本相撲協会に対してだけど・・・。朝青龍が巡業をサボって母国でサッカーなんぞをした事件の時に、相撲協会がはっきりした態度をとっていれば、まだ痛手は少なかったろうと思うが、もはや覆水盆に返らず、だ。

 朝青龍の人間性そのものは、他の人間と比べて取り立てて異質なものではなかろう。朝青龍と同じ様な人間は同じ町内に一人や二人はいる。でもそういう人間が他人に迷惑をかけたりすれば、警察の世話になる。または町内に住めなくなる。ちゃんと社会のシステムは働いている。ところが今の相撲界はこのシステムが働いていない。朝青龍が本場所に出場すれば、満員御礼の垂れ幕が下がるし、テレビの視聴率もアップする。朝青龍をパンダ同様に扱ってきた相撲協会の今までの怠慢のツケが、今になって一気に吹き出てきたということだ。

 日本相撲協会の理事選において前近代的な制度で選挙が行なわれていたことを、数日前の理事選で知った人は多いと思う。あたしもその一人だ。これが民主国家で国から税制面で優遇されている文科省管轄の財団法人のやることかと思うと、いっそのこと、この財団法人の「事業仕分け」をやってほしくなる。おまけに大方の予想を裏切って貴乃花親方が逆転当選したことで、裏切った犯人さがしに躍起となる一門の姿を見て、いつの時代の、どこの国のスポーツ組織の醜態かとあきれた人もいるだろう。犯人(?)のひとり、貴乃花親方に投票した安治川親方が相撲協会からの退職を公表したが、相撲協会の「厚意」でそれを一晩で撤回するというドタバタ劇から伝統や格式が感じられる人は手を挙げてほしい。安治川親方に対して、これから相撲協会の舅のいじめに似たものがあることは予想できる。そもそもこれは「厚意」ではなくて、相撲協会が安治川親方を「放逐」したという印象を国民にもたれるのを免れたいだけなのである。

 引退を表明した朝青龍は、「自分のいたらなさを自覚して」というよりも日本相撲協会に「見切りをつけた」というべきだろう。相撲協会の理事会に呼ばれ、事情を聞かれるにつれて、心の中で「大相撲の視聴率を上げたオレが何でこんなことで・・・」と思ったかもしれない。これがモンゴルという国で生まれた国民性の違いかもしれない。相撲協会にとって不幸なことは、そういう人間がスポーツの中でも特に格式と伝統を重んじる相撲界に入ってきたことだ。そして横綱になったことだ。いや横綱にしてしまったことだ。幕下のペェペェの頃に相撲協会や親方などから厳しく躾けられてきたら、結果はまた違ったものになったに違いない。ましてや日本の伝統や格式など全く知らなくてあたりまえの外人なのである。この相撲協会にしてこの親方あり、といったところか。

 何々至上主義というのは、えてして誤った方向に社会を導いてしまう。利益至上主義、視聴率至上主義、優勝至上主義、選挙至上主義等々。今回の朝青龍の引退は、日本相撲協会が伝統と格式を軽んじて、観客至上主義、視聴率至上主義、協会至上主義に奔った結果だ。もちろん、相撲協会の理事選において、一時的にしろ犯人探しをするという前近代的な一門のやりかたも、伝統と格式から大きく外れているということを念のため申し添えておく。