2010年2月26日金曜日

トヨタ社長の涙

 米トヨタの工場で働く従業員やディーラーの対話集会で、公聴会を終えたばかりのトヨタ自動車の豊田章男社長が涙ぐんだ映像を見て、あたしは、日本のリーダーというのはなんとひ弱い神経しか持ち合わせていないのだろうかと思ってしまった。まるでいじめっ子に苛められて、急いで帰ったら母親に慰められて、思い出し泣きした子どもだ。

 3時間もの公聴会では痛烈な質問を浴びて頭は下げっぱなしで、20兆円以上の売り上げ(2009年3月期決算)があった大会社の社長も、さすがに従業員たちの慰めの言葉には感極まったというのはわかる。それは日本人の感情として理解できるのであって、涙ぐむことはなかろう。現地の従業員たちは社長が涙ぐんだのを見て一瞬静まり返ったというから、米国人には理解しがたい光景であったかも知れぬ。AP通信は、「日本では間違いを認めるのは美徳で、泣くことはその象徴」とする見方があると紹介しているが、わざわざ説明しなければならないほど、こういう場面でリーダーが泣くことは米国では奇異に見られるのである。

 大会社の最高権力者は、それ相応の艱難辛苦を乗り越えてその権力を手に入れたと思うのがアメリカでは一般的である。ところが、昨年6月に就任した豊田章男トヨタ社長について、一部のマスコミは「こども社長」とネットで揶揄されていると報じていたほどの人物像である。あまりマスコミのインタビューに応じないこの社長が、今回の公聴会への出席を避けたかったのは当然だろう。抜き差しならぬ状態になって公聴会に出かけたが、答弁が大会社の社長らしくなく、素人くさかったことがかえって誠実に取られたのはケガの功名だとしても、日本人のあたしから見ると、神妙な顔つきで謝罪する同じ姿が日本国内でも見られるかどうかはわからない、と思うと複雑な気がする。日本では、恐らく上から目線で、木で鼻をくくったような言葉しか聞けないだろう。

 会社のトップに就任するまで精神的に叩かれたことのない経営者は、己の会社の業績に関する限りにおいて、会社の不振やトラブルに必要以上に狼狽し、怒り、涙を流す。こんな状況の時に経営者に必要なのはまず強固な精神力、そして洞察力と予知力だ。

 豊田社長はこれから先のことについては素晴らしい言葉で約束(!)しているが、これまでのことについては、できなかったことへの反省ばかりである。そうなるとこれまでの車はすべて、安全意識に欠けた環境で生産されたことにも受け取られるが真意はそうではないだろう。あれも誤りでした、これも不十分でしたと、海の向こうではペコペコ頭を下げる経営者ほど見苦しいものはない。トヨタ車を販売した他の国や日本でも消費者に対し、同じ様に頭を下げるのだろうか。

 AP通信は、この公聴会で豊田社長が通訳の合間を利用して次の証言を考えていた、と報じているがその見方は外れている。もしそうであれば、集会で慰めの言葉をかけられただけで涙ぐむはずがない、とあたしは思うのだ。

 大会社の社長がちょっとした慰めの言葉だけで涙ぐむのであれば、08年から09年にかけて数千人もの期間従業員の首を切らざるを得なかったという非人道的なことに対し、トヨタの経営陣が涙を流してもいいはずなのに、このことで一粒の涙さえも流していないとは、涙ぐむシチュエーションを取り違えているのではないかとさえ思う。それとも涙腺は、会社の保身のみに反応するようになっているのだろうか。

 トヨタは07年度に13兆円を超える内部留保があった。もちろんすべてが現金ではないかもしれないが、これらは社会保険から除外された安い給料で昼夜働いた期間従業員が稼ぎ出したものでもある。

 フロアマットが原因でアクセルペダルの戻りが利かないことから始まったトヨタ車の一連のリコール騒ぎは、ただ単に物理的、電子的なトラブルだけを解消したら終わるものではない。日本ではなく米国の公聴会で、具体的でないにしろ過ちを認めたということは、今までのトヨタ車に関するトラブルはすべて責任を認めるということである。何十兆円もの売り上げを遂げてきたガリバー的会社が、今までの儲けや内部留保金をことごとく吐き出さざるを得ない状況に誰がしたのであろうか。あたしは今回のことで、「千丈の堤もアリの一穴から崩壊す」ということわざを思い出す。そのアリが些細なクレームのことなのか、物を捨てるように首を切られた期間従業員のことを指すのか、それはわからない。

0 件のコメント:

コメントを投稿