2010年3月11日木曜日

「核密約」問題で〇〇の流れは変わるか

 衆院外務委員会は10日、核持込など日米間の密約問題で、このことに関わったとされる元外務次官や元自民党衆院議員、沖縄返還当時における日米間の密約について秘密漏洩の罪があったとして逮捕された西山太吉元毎日新聞記者らの参考人質疑を19日に実施することを決めたという。さらに与党は歴代首相と外相の国会招致を求めることを決めた。

 ここでお知らせ、このブログのタイトルが不完全であるのはなぜかと言うと、それはあなた次第で〇〇の中に、「鳩山政権支持率」とか「普天間基地移設」、「日米関係」、「自民党再生」(いやこれはないな)とかを入れて読みかえてください、ということ。ブログのタイトルを丸投げとまではいかないまでも他人任せにして、それによってあたしのブログのニュアンスを微妙に違えていく手法もあったりしていいかなあ、と考える。人によっては好まれるかも・・・。 

 さて、「密約」があったと外務省が発表した事を受けた鳩山首相のコメントは、訳のわからぬ面妖なものだとあたしは別のブログで批判した。そのあたしの不満が多少は和らぐことを衆院外務委員会や与党はやってくれそうだ。こんなことは鳩山首相が真っ先に指示し、それをコメントすれば首相のリーダーシップをアピールできたのに、あたしたち国民に映るのは、部下の後を力なくついて行く指導者の姿だ。

 「密約」に関わったとされる人物や重要参考人らを国会に呼んで「密約」のさらなる調査に取り掛かかることは当然のことだ。また与党が歴代首相と外相の国会招致を求めたことも国民の思いと方向は一致する。これに対し、自民党の大島幹事長は小沢幹事長らの国会招致が前提だと、全く次元の異なる提案をしてきている。長年、自分たちの自民党政権が国民を欺く行為をしておきながら、そのことには少しも触れずに、あたかも物を取引するようなくだらない提案は蹴っ飛ばして結構。「密約」の検証を徹底的にやることの意義は、今後同様な「密約」が生じることを防ぐためだ。「密約」の検証は徹頭徹尾行なうことで、米国はもとよりその他の国に対して、日本とヘタな裏取引はできないという強力なメッセージを送ることにもなる。

 あたしたち国民の多くが一生涯野に下っていることをいいことに、政治家や官僚は多くのウソを国民についてきた。今回の「密約」はその際たるものだ。冷戦時代に、敵国に利すると懸念される理由で「機密」にされるものがあることは否定しない。そういうものは機密であり、「密約」とは言わないものだ。今回の件は主権たる国民と被爆国たるメッセージすなわち「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず(持ち込ませず)」を無視して、日本政府と米国が暗黙の合意をしたものである。このことについて、今でも「密約は存在しない」とか、「承知していない」とウソを言い続け、とぼける歴代首相や自民党元閣僚や官僚に対して、現政府が徹底的な調査を行い、その腐った精神を叩きなおす(もう直りはしないだろうけど)位の事をして欲しい。できることならこういう言動が何らかの罪に問えないのか調べてもらいたいとは思う。

 あたしがこの「密約問題」を執拗に取り上げるのは、民主国家であれば絶対に譲ることのできない重要な因子を含んでいるからだ。それは、この問題をおざなりに済ませてしまったら、今後国民と政府との間に不可欠な信頼関係(特に核に関すること)を築くことが難しくなるということだ。本来は米国が負担すべき現状復帰の経費を日本が負担したという「密約」、それも重要だがあたしが最も重要視するのは核の持ち込みにおける「密約」だ。世界で唯一の被爆国でありながら、時の政府はその教訓を生かすどころか、国民には「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」と言いつつ、その裏で「核の持ち込み」を認めていたことである。冷戦時代における国益を考えれば、苦渋の選択であったかも知れないが、そうであるならばなおさらそのことについて国民に是非を問うことが真の民主国家、唯一の被爆国として必要だったのではないかと、あたしは考える。

 歴代の政権は「事前協議の申し入れがない以上、核が持ち込まれたということはない」とおかしな理論で核の持込はなかった、と言ってきたし今も言い続けている。悲しいことに今の政権の一部の閣僚も同じ言葉を発している。沖縄や岩国の米軍基地に核が持ち込まれたという精度の高い情報があっても、である。

 こういう小学生でもわかるおかしな理論で長期の自民党政権を擁してきたあたしたちにも責任はある。しかし自分たちにとって都合のよい情報しか伝えない歴代の政府や官僚がいては、たとえ主権が国民であると謳っていても、実情はかの国の一般民衆と五十歩百歩であろう。

 この核持ち込みに関する「密約」の存在を明らかにすることで、逆に核抑止力を期待する声が政治家の中にもあって、果たしてこれが被爆国日本のありうるべき姿なのかなといぶかしく思う。グレーな部分を残し、そこに本来の期待をかけることは手法が本末転倒ではないか。それが十分な効果を発揮できなかった場合にはブラックユーモアーとしか映らない。

 マトモなことを言えば、それでは世の中を生きていけない、世の中というのはこういうもんだ、とかいってことさら必要悪を唱える者がいる。表向き核廃絶を叫びながら核装備をする国がある以上、それに対抗するには同じ様な装備が必要だという意見は一見正しいように見えるが、大事な点を見落としている。それは日本が被爆国であるということだ。

 自分たちの肉親、親戚に被爆者がいれば、核に対する認識はそうでない者と比べ大きく違ってくる。自分の国に被爆者を抱えていれば、政府はそうでない国と違った、核に対する新たな認識を持たねばならない。ましてやその被爆者は作為的に被爆させられたのだ、時の政府の暴走によって。そういう国の政治家が核に対して寛容であっていいはずがない。痛みというのは、本人でないとその痛みがわからない。それを共有してこそ、真の被爆国の政府といえよう。

 

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